こんにちわ。
「中堅理学療法士による北海道理学療法研究会」
代表を務めるさせていただいている小野圭介です。
前回の初ブログは案の定「長い」と言われました。
人に想いを伝えるのは難しいことです。
表情、視線、間などにも想いが乗りそれが削がれる
文章や通話は特に難しいものと学び中です。
「機微に聡い」ことは、臨床でも重要な能力なのではないかと思います。
「試される大地 北海道」は土地が広大なため、
その中で想いをぶつけ合うときに、今後必ず直面する課題です。
また、現在感染問題が蔓延しています。
当研究会も3月に帯広初開催予定であった研修会は
難しいという判断になりました。
しかし、副代表の伊藤広和さんはこう言いました。
「言い方に語弊はあるが、ピンチはチャンスだ」
っと。
離れた者同士で想いを伝え合い、
それが自分の成長に繋がることができる研修に、
tryできるタイミングと当研究会は捉えました。
単純なeラーニングではない形を模索しています。
(良いアイディアや技術を持っている人は一報お待ちしています)
今回は「臨床家が行う研究」について書きたいと思います
(もちろん長文で)。
・臨床家に統計は必要か?
学会で行われる質疑応答で、
「この統計手法はこうだから間違いだ」
「この統計はどうたらこうたら」
(細かく言えないのが私の能力)
などを耳にします。
学術の発展のために必要なことなのでしょうが、
私はそこに質疑応答の時間がとられることに苦痛を感じます。
あくまで臨床に活かす上で、
その有効性や有用性、有用な範囲、
発展や応用の可能性、デメリット
を考える時間にしたいと思うのです。
研究を実践すると、統計手法をどうするのか、
統計をかける処理や解釈などに時間がかかってしまいます。
私たちにとって統計は必要なのでしょうか?
・統計とは
世界の一部分を切り取り、特徴や解釈を読み取る。
それが統計なのではないかと思います。
ある集団(母集団)の特徴を知る過程の中で、
特異な部分は切り落とされます。
そして得られることは母集団に関わる
ある推測の信頼性をみること。
このように私は統計に関して解釈しています。
母集団の設定をどう洗練するかが
統計では重要と思いますが、
難渋する症例は大抵その洗練していく過程で切り落とされてしまいます。
臨床では、
高齢化社会の中で認知症、低栄養、
再発症例、高次脳機能障害など
多種の影響が絡まり合う中でどうしていくか、
どう予後予測を行うか悩みます。
このズレが、
統計の必要性を薄めてしまう要因の一つであると思います。
・臨床家が行う研究
「だから研究なんてやらなくていいや」という
臭いモノには蓋をする思考では、
今までと何も変わらないのではないでしょうか?
統計には「推測統計」と「記述統計」があります。
推測統計は統計的仮説検定をしていきますが、
記述統計においては平均や中央値、相関係数を出し
要約をするのみとなります。
この場合、同様の症状の人にも効果あるなど
統計的には言えなく
あくまでその個人に対するものになりますが、
臨床家の経験とは、記述統計の繰り返しであると思います。
こうやったら良かった、
こういう反応にはこうするなど
臨床の引き出しを増やしていく過程を思い返すと、
で統計的にはその集団から切り落とされる症例にも
自然と思考の中で応用していると思います。
ここに善し悪しが生まれ、
あいまいな医療を提供してしまっているという
危険性があるのではないでしょうか。
努力の方向は、統計に詳しくなろうではなく、
記述統計の思考を外に出し続けることへ向かうべきであると思います。
自分の中で完結してしまえば必ずそこに趣味趣向が生まれます。
物事には必ず善し悪しが生まれるので、
その悪しの部分がみえなくなってしまいます。
学術の場では軽んじられるかもしれませんが、
実務を客観的数値に置き換え、共通言語で共有し外に出す。
臨床家が行う研究は、その一つのツールなのではないでしょうか。
餅は餅屋思考です。
その積み重ねは統計を専門に行っている方が拾ってくれるはずです。
研究会で行う研修は、
思考を外に出しそれを話し合う場です。
傍聴ではなく、議論(参加)するために少人数で行っています。
学会においても、研究会においても、
公の場で未熟な部分をさらけ出すのは勇気がいることですが、
プライドを捨てたら背負い込める量は拡大に増えるぜよ。
以上です。ありがとうございました。